漫画・つげ義春が描く、退屈と憂いの現代文学的な世界観を考察

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日常のふとした瞬間に、言いようのない虚無感や、どこか遠くへ消えてしまいたいという「蒸発願望」に襲われることはありませんか?

私たちが生きる現代社会は、常に効率や成果、そして「何者かであること」を求められ続けています。情報の濁流の中で、立ち止まることすら許されないような感覚。そんな乾いた心に、不思議なほど深く染み込んでくるのが、漫画家・つげ義春が描き出した世界です。

昭和の貸本漫画時代から活躍し、2020年にはフランスのアングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞を受賞、さらに2022年には漫画家として初めて日本芸術院会員に選出されるなど、今やその評価は「漫画」という枠を超え、ひとつの「文学」として確立されています。

なぜ、数十年も前に描かれたつげ義春の漫画が、令和の今を生きる私たちの心をこれほどまでに揺さぶるのか。そこには、単なるノスタルジーではない、現代文学にも通じる「退屈」と「憂い」の極めて純度の高い美学が存在しています。

今回は、つげ義春の代表作を紐解きながら、その独特な世界観が持つ現代的な意義を深く考察していきましょう。


「私漫画」という革命:自己の無能さを曝け出す勇気

つげ義春を語る上で欠かせないのが「私漫画(しまんが)」という概念です。これは文学における「私小説」に近い手法で、作者自身の内面や実生活、あるいは夢や妄想を、虚実入り混じった形で描き出すものです。

かつての漫画界では、ヒーローが活躍する物語や、読者をワクワクさせるエンターテインメントが主流でした。しかし、つげ義春が描いたのは、赤面症に悩み、対人恐怖を抱え、貧困と病に喘ぐ自分自身の情けない姿でした。

特につげ義春全集に収録されている作品群を読み進めると、そこに描かれているのは「成功」とは対極にある「停滞」です。しかし、この徹底した自己の無能さの露呈こそが、現代の読者にとっては救いとなります。

「立派でなければならない」「強くあらねばならない」という呪縛から解き放たれ、ただそこに存在しているだけの自分を肯定する。彼の私漫画は、社会的な仮面を剥ぎ取った先にある、人間の生々しい手触りを教えてくれるのです。


旅と蒸発:ここではないどこかへ向かう「憂い」の正体

つげ作品の大きな柱となっているのが「旅」です。しかし、それは決して楽しい観光旅行ではありません。彼が向かうのは、千葉の太海や、群馬の湯宿温泉といった、世間から忘れ去られたような「鄙び(ひなび)た」場所です。

そこには、時間の流れが止まったような静寂があります。崩れかけた湯治場、やる気のない宿の主、淀んだ川の水。これらの風景は、作者が抱える「憂い」を視覚化したものと言えるでしょう。

読者がつげ作品の旅に強く惹かれるのは、そこに「蒸発願望」が投影されているからです。会社や家族、名前や肩書きといった、自分を縛り付けているすべての属性を捨てて、誰でもない「透明な存在」になりたいという欲求。

つげ義春が描く旅の風景は、現実逃避という言葉では片付けられない、実存的な「消えたい」という願いを優しく受け止めてくれます。何もない場所で、ただ退屈な時間を過ごすことの贅沢さと切なさが、読者の孤独な魂に寄り添うのです。


『ねじ式』に見る不条理と夢のリアリズム

つげ義春の名を世界的に知らしめた伝説的な一作といえば、やはり『ねじ式』でしょう。メメクラゲに腕を噛まれ、血管を繋ぐための「シリツ」をしてくれる医者を探して彷徨う少年。

この作品に、論理的な意味を求めても答えは出ません。なぜなら、これは夢の論理で描かれたシュルレアリスムの傑作だからです。蒸気機関車が背後から迫り、不気味な医者が現れ、唐突に終わる物語。

この「わけのわからない不条理」こそが、現代文学的な考察の対象となってきました。私たちの人生もまた、実は整合性の取れない不条理な出来事の連続ではないでしょうか。

『ねじ式』を読み終えたあとの、まるで悪夢から目覚めた時のような、あるいは深い水底から浮上した時のような奇妙な感覚。それは、言葉で説明できない人間の「無意識」の領域に、つげ義春の絵が直接触れた証拠なのです。この難解さこそが、タイパや効率が重視される現代において、私たちが失いかけている「思考の深淵」へと誘ってくれます。


『無能の人』が提示する、消費社会への静かな抵抗

1980年代に発表された『無能の人』シリーズは、つげ義春のひとつの到達点と言えます。主人公は、かつては漫画家として名を馳せたものの、今は描く意欲を失い、河原で拾った「石」を売って暮らそうとする男です。

当然、石など売れません。妻からは罵倒され、子供はひもじい思いをします。傍目から見れば、まさに「無能」の極みです。しかし、この作品を読んでいると、石を売るという行為が、ある種の神聖な儀式のように見えてくるから不思議です。

「価値のないものに価値を見出す」あるいは「売れないことを承知で、ただそこに座り続ける」。これは、あらゆるものを商品価値で判断する資本主義社会に対する、最も静かで、最も痛烈な抵抗です。

現代の私たちは、自分の市場価値を上げることに必死です。しかし、『無能の人』は問いかけます。「何もしないこと、役に立たないことにこそ、本当の自由があるのではないか」と。この作品が描く深い「退屈」は、私たちを縛る強迫観念を、ゆっくりと解きほぐしてくれる力を持っています。


漫画・つげ義春が描く、退屈と憂いの現代文学的な世界観を考察して見えたこと

つげ義春の世界を巡る考察を通じて見えてきたのは、彼が描く「退屈」や「憂い」が、決してネガティブなだけのものではないということです。

それは、情報の過剰摂取で疲れ果てた私たちが、自分自身を取り戻すために必要な「空白」そのものでした。彼の作品の中に流れる静謐な時間や、不条理な夢の風景、そして無能であることへの開き直りは、現代社会という巨大なシステムからこぼれ落ちてしまった「個人の真実」を救い上げています。

つげ義春 流れ雲旅などの随筆も含め、彼の表現に触れることは、自分の中にある孤独や弱さを愛でる体験に他なりません。

もし、あなたが日々の生活に息苦しさを感じ、出口のない閉塞感の中にいるのなら、ぜひ、つげ義春の漫画を開いてみてください。そこには、美しく、そしてどこまでも深い「退屈」が広がっています。その憂いに満ちた世界観に身を浸すとき、あなたは、今のままでも生きていていいのだという、静かな肯定を感じることができるはずです。

文学としての漫画が到達した最高峰の地平。つげ義春が遺した作品群は、これからも時代を超えて、迷える人々の心に灯る「小さな、しかし消えない光」であり続けるでしょう。

まずは一冊、手に取ってみることから始めてみませんか。そこには、あなたがずっと探していた、もう一人の自分の姿が描かれているかもしれません。

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