歴史漫画の金字塔として知られる岩明均先生の『ヒストリエ』。物語の主人公は、後にアレクサンドロス大王の書記官となるエウメネスですが、読者の視線を釘付けにして離さないのが、若き日のアレクサンドロス大王の存在です。
教科書に載っている「偉大な征服者」としての姿とは一線を画す、あまりにも危うく、そして魅惑的な彼。今回は、漫画『ヒストリエ』が独自の視点で描き出すアレクサンドロス大王の「秘話」と、その圧倒的な造形について深掘りしていきましょう。
二重人格という大胆な解釈:ヘファイスティオンの正体
『ヒストリエ』を語る上で避けて通れないのが、アレクサンドロスの中に潜むもう一人の人格「ヘファイスティオン」の存在です。
史実におけるヘファイスティオンは、アレクサンドロスの幼馴染であり、生涯を通じての親友、そして軍の副官として支えた実在の人物。しかし、岩明先生はこの歴史的実在人物を、アレクサンドロスの「内側にいる別人格」として再定義しました。
この設定こそが、本作における最大級の「秘話」であり、物語をスリリングにしているスパイスです。表向きの顔であるアレクサンドロスは、感受性が豊かで、時に情緒不安定な少年として描かれます。対して、内なるヘファイスティオンは非常に冷徹で合理的、軍事的な才能に特化した「怪物」のような側面を持っています。
この二重人格設定は、大王が成し遂げた常人離れした偉業と、時折見せる激しい気性のムラという史実の矛盾を、一つの肉体に同居させる見事な解釈といえるでしょう。
蛇のアザと母オリュンピアスの呪縛
アレクサンドロスの額にある、不気味な蛇の這い跡のようなアザ。これもまた、本作における彼の個性を際立たせる重要な要素です。
彼の母であり、マケドニア王妃であるオリュンピアスは、熱狂的な宗教儀式に身を投じる女性として描かれています。彼女は息子アレクサンドロスに対し、「お前の本当の父親は神(ゼウス)であり、現王フィリポスではない」と幼少期から吹き込み続けます。
この母子の歪な関係が、アレクサンドロスの精神形成に影を落としています。額のアザは、母が愛でる蛇の象徴であり、彼が「普通の人間の世界」から切り離された存在であることを視覚的に示しているのです。
ヒストリエを読み進めると、このアザが単なる模様ではなく、彼の内面にある「異形さ」のメタファーとして機能していることがわかります。母からの歪んだ愛と期待が、彼を英雄へと押し上げると同時に、深い孤独へと突き落としていく過程は、まさに呪いそのものです。
父フィリポス2世との対比:泥臭い知略と天賦の才
父であるマケドニア王フィリポス2世は、隻眼の豪傑であり、たたき上げの軍人政治家です。彼は泥臭い交渉や、時には卑劣とも思える知略を駆使して領土を広げていきます。
一方のアレクサンドロスは、そうした父の「政治的な泥臭さ」をどこか軽蔑している節があります。彼が求めているのは、もっと純粋で、もっと圧倒的な「力」と「理想」です。
エウメネスという書記官の目を通して描かれるこの父子の対立は、非常に興味深いものがあります。フィリポスは息子の才能を認めつつも、その底知れぬ「異質さ」に恐怖を感じ、アレクサンドロスは父の背中を追いながらも、自分ならもっと高くへ行けると確信している。
この世代交代の予感と、血なまぐさい王宮内のパワーゲームが、物語に重厚な緊張感を与えています。
教育者アリストテレスが見た「標本」としてのアレクサンドロス
アレクサンドロスの家庭教師として招かれた、史上名高い哲学者アリストテレス。彼とアレクサンドロスの関係も、『ヒストリエ』ならではの冷徹な視点で描かれています。
アリストテレスはアレクサンドロスを「教え子」として慈しむというよりは、観察対象である「珍しい標本」のように見なしています。少年の内面に潜む非凡な知性と、それを上回る狂気。その正体を見極めようとするアリストテレスの眼差しは、読者の視点とも重なります。
また、アレクサンドロス自身も、アリストテレスから授けられた知識を、自分の帝国を築くための「道具」として吸収していきます。知性と暴力が融合していくその過程は、美しくも恐ろしいものです。
名馬ブケパロスとの共鳴:人ならざる者同士の絆
アレクサンドロスの有名な逸話の一つに、気性の荒い名馬ブケパロスを手なずけるシーンがあります。
通常の歴史書では、アレクサンドロスが「馬が自分の影に怯えていることを見抜いた」という知恵の勝利として描かれます。しかし、『ヒストリエ』におけるこの描写は、もっと神秘的な「共鳴」として描かれています。
人間には理解できない動物の野生と、アレクサンドロスの内側にいるヘファイスティオンが呼応する。この瞬間、彼は人間社会のルールを超越した「王」としての器を証明するのです。
この名馬とのエピソードは、彼が後の東征で見せる「常識を覆す戦術」の片鱗を感じさせる、非常に重要なターニングポイントとなっています。
エウメネスの視点が浮き彫りにする「孤独な天才」
本作の主人公エウメネスは、優れた知性と冷めた観察眼を持つ青年です。彼はアレクサンドロスという怪物を、誰よりも近くで、しかし客観的に見つめる立場にあります。
エウメネス自身も、ある意味では周囲から浮いた「異物」ですが、彼は自分の知性を現実的な処理能力として使います。対するアレクサンドロスは、知性を世界を破壊し再構築するためのエネルギーとして使います。
この二人の奇妙な共犯関係、あるいは主従関係こそが、物語の真骨頂です。エウメネスが記録(ヒストリエ)を残そうとすればするほど、アレクサンドロスという存在の不可解さが浮き彫りになっていく。
読者はエウメネスの視点を借りて、この若き天才が抱える、誰にも理解されない深い孤独に触れることになるのです。
漫画「ヒストリエ」が描くアレクサンドロス大王の秘話を徹底考察:結びに代えて
岩明均先生が描くアレクサンドロス大王は、単なる歴史上の英雄ではありません。それは、家族の愛執に翻弄され、自らの内なる怪物と戦い、それでもなお世界の果てを目指さずにはいられない、一人の「人間」の極限の姿です。
二重人格という斬新な設定、母オリュンピアスの呪縛、そして父フィリポスとの葛藤。これらの要素が複雑に絡み合い、私たちはこれまでにない「新しいアレクサンドロス像」を目の当たりにしています。
物語は今、まさに激動の時代へと突き進んでいます。エウメネスの知略と、アレクサンドロスの狂気が、どのように融合して歴史を動かしていくのか。その行方から、一瞬たりとも目が離せません。
ヒストリエという壮大なキャンバスに、これからどんな驚愕の「秘話」が描き加えられていくのか。一読者として、この天才たちが織りなす物語を最後まで見届けたいと思います。
以上、漫画「ヒストリエ」が描くアレクサンドロス大王の秘話を徹底考察しました。次にこの作品を読み返すとき、彼のアザや表情の裏側に潜む「ヘファイスティオン」の影を、ぜひ探してみてください。

コメント