「日出処の天子」という漫画を読み終えたとき、あなたはどんな感情を抱きましたか?
圧倒的な画力と息を呑むような心理描写。そして、あまりにも衝撃的で、どこか突き放されたようなあのラストシーン。読み終えた直後、呆然としながら「えっ、これで終わり?」「もしかして打ち切りだったの?」と疑問に思った方も少なくないはずです。
1980年代の少女漫画界に革命を起こし、今なお「不朽の名作」として語り継がれるこの作品。今回は、長年ささやかれてきた「日出処の天子 打ち切り説」の真相に迫りながら、作者・山岸凉子先生が描きたかった真の結末と、主人公・厩戸皇子が抱えた孤独の正体について深く掘り下げていきます。
「日出処の天子」打ち切り説はなぜ生まれたのか?
まず結論からお伝えしましょう。「日出処の天子」は打ち切りではありません。 作者である山岸凉子先生が、緻密に計算し、魂を削りながら描き抜いた構想通りの完結です。
では、なぜこれほどまでに「打ち切りだったのではないか」という噂が根強く残っているのでしょうか。その理由は、本作が持つ「特殊な構成」と「読者の期待とのギャップ」にあります。
歴史的事実との「ズレ」が呼んだ誤解
私たちが義務教育で習う「聖徳太子」といえば、十七条憲法の制定、冠位十二階の設置、そして遣隋使の派遣といった輝かしい功績の数々ですよね。しかし、物語はこれらのイベントを詳細に描く前に幕を閉じます。
蘇我馬子が権力を握り、推古天皇が即位し、厩戸皇子が摂政として政治の表舞台に立つ。まさに「これから聖徳太子の快進撃が始まる!」というタイミングで物語が終わってしまうため、歴史ドラマとしての続きを期待した読者が「志半ばで終了させられた」と感じてしまったのです。
あまりに急転直下な心理的結末
物語の終盤、厩戸皇子と蘇我毛人の関係は決定的な破綻を迎えます。それまでの大河ドラマ的な盛り上がりから一転し、ラスト数話は非常に内省的で、静謐(せいひつ)な絶望感が漂います。この急激なトーンの変化が、「急いで物語を畳んだ」という印象を与えた可能性も否定できません。
完結当時の山岸凉子先生を襲っていた「極限状態」
打ち切りではないにせよ、連載当時の執筆状況が「穏やかではなかった」のは事実です。山岸凉子先生は後のインタビューで、当時の過酷な状況を振り返っています。
命を削るような執筆作業
当時の山岸先生は、精神的にも肉体的にもボロボロの状態でした。「一色塗るたびにベッドに倒れ込んで休まなければならなかった」と語るほど消耗しており、まさに命を削ってペンを走らせていたのです。
あの緻密な装飾、流麗な線、そしてキャラクターの瞳に宿る狂気。それらはすべて、作者の限界ギリギリの集中力から生み出されたものでした。この「執筆の苦しみ」が作品全体にピリピリとした緊張感を与え、読者にも「これ以上は描き続けられないのではないか」という予感めいたものを抱かせたのかもしれません。
「描きたいことはすべて描ききった」という確信
山岸先生にとって、この作品の主眼は「歴史の再現」ではなく、あくまで「厩戸皇子という一人の人間の魂の救済と絶望」でした。毛人との決別によって、厩戸の人間としての愛の物語は終焉を迎えます。
作者の中で「厩戸の孤独が完成した」瞬間、物語は終わる必要がありました。政治的な功績は、彼にとっては孤独を埋めるための代償に過ぎなかったからです。
もし本作の美麗なイラストや世界観を自宅でもじっくり鑑賞したいなら、日出処の天子 完全版を手元に置いておくのが一番の贅沢かもしれませんね。
厩戸皇子が求めた「救済」と、毛人が選んだ「凡庸な幸せ」
本作を語る上で避けて通れないのが、厩戸皇子と蘇我毛人の残酷なまでの対比です。
超人ゆえの悲劇
厩戸は、他人の心が読め、空中を浮遊し、未来を予見する超能力者として描かれます。しかし、その力ゆえに誰からも理解されず、実の母親である間人媛(はしひとひめ)からは「化け物」として忌み嫌われて育ちました。
彼が求めていたのは、政治的な権力でも、仏教による救済でもありません。ただ一人、「ありのままの自分を受け入れてくれる存在」でした。それが蘇我毛人だったのです。
毛人が突きつけた「現実」
一方の毛人は、心優しく誠実ですが、あくまで「普通の世界」に生きる人間です。彼は厩戸の孤独に惹かれながらも、最終的には理解不能な「超人」である厩戸ではなく、自分と同じ目線で未来を語れる布都姫(ふつひめ)を選びます。
「私を一人にしないでくれ」という厩戸の悲痛な叫びに対し、毛人は背を向けました。この瞬間、厩戸は精神的な死を迎えたと言っても過言ではありません。この徹底した「拒絶」こそが、本作を少女漫画の枠を超えた文学的作品に押し上げています。
現代にも通じる「ジェンダー」と「孤独」のテーマ
連載から数十年が経過した今、読み返してみると「日出処の天子」がいかに先駆的な作品であったかに驚かされます。
性別を超越した存在
厩戸皇子は、時に美しく着飾り、女性とも男性ともつかない神秘的な姿で描かれます。これは単なる「美形キャラ」としての演出ではなく、既存の性別や社会規範に当てはまらない彼の「異質さ」を表現しています。
現代で言うところのクィア的な文脈や、アイデンティティの葛藤が、1980年代にすでにこれほど高い完成度で描かれていた事実は驚異的です。
「日出処の天子」というタイトルの皮肉
物語の最後、厩戸は最高権力者である「天子」として、まばゆい光の中に立ちます。しかし、その光は彼を温めるものではなく、周囲を焼き尽くし、自分以外に誰も寄せ付けない絶対的な孤独の光です。
「日は昇ったが、彼の心は永遠に闇の中にある」という皮肉。これこそが、山岸先生が用意した真のエンディングでした。
この圧倒的な孤独感を表現した山岸先生の他作品、例えば山岸凉子 自選複製原画集などを見ると、彼女が描く「線」の一本一本がいかに感情を宿しているかがよく分かります。
読み継がれるべき、未完のような「完全なる終焉」
多くの読者が「打ち切り」だと勘違いしてしまうほど、本作の余韻は強烈です。それは、私たちが「救いのある物語」を無意識に求めてしまうからでしょう。
しかし、山岸先生は安易な救いを与えませんでした。厩戸皇子という孤独な天才を、孤独なまま、しかし誇り高く歴史の表舞台へと送り出したのです。
メディアミックスに見る不変の価値
本作は完結後も、野村萬斎氏による舞台化など、さまざまな形で再解釈され続けています。それは、この物語が描く「愛されたいという渇望」や「他者との分かり合えなさ」というテーマが、時代を問わない普遍的なものだからです。
もしあなたがまだ、あの結末に納得がいっていないのなら、もう一度最初から読み直してみてください。そこには、最初から最後まで一貫して「孤独」へと向かって突き進む、緻密な伏線の数々が散りばめられていることに気づくはずです。
「日出処の天子」は打ち切りだった?真相と結末の評価、山岸凉子が描いた孤独の正体:まとめ
「日出処の天子」を打ち切りだと思っていた方は、この記事を通じて、あの結末がどれほど必然的なものであったかを感じていただけたのではないでしょうか。
- 打ち切りではなく、作者の構想通りの完結であること
- 歴史的功績よりも「個人の孤独」に焦点を当てたこと
- 山岸凉子先生が命を削って描ききった魂の結晶であること
この作品は、一度読んだら一生忘れられない傷跡を読者の心に残します。しかし、その傷跡こそが、私たちがこの物語を愛してやまない理由なのかもしれません。
もし、まだ手元に全巻揃っていないという方は、この機会に日出処の天子 文庫版 全巻セットを揃えて、あの美しくも残酷な飛鳥時代に再び浸ってみるのも良いでしょう。
あのラストシーン、厩戸皇子が見つめた先に何があったのか。それを想像し続ける限り、私たちの心の中で「日出処の天子」が終わることはありません。

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