「従業員が仕事中に怪我をして、もう3年も休んでいる。会社としていつまで雇用を維持しなければならないのか……」
「労災で治療中なのに、会社から『打切補償を支払うから辞めてほしい』と言われた。これって違法じゃないの?」
仕事上の事故や病気(労災)が長引いたとき、避けて通れないのが「打切補償」という問題です。聞き慣れない言葉かもしれませんが、実はこれ、会社にとっても労働者にとっても、その後の人生や経営を左右するほどインパクトの大きい制度なんです。
今回は、知っているようで知らない「打切補償」の仕組みについて、法律の難しい言葉を噛み砕いて徹底解説します。
そもそも「打切補償」とは何か?
まずは基本の「キ」から。打切補償(うちきりほしょう)を一言でいうと、「会社がまとまったお金を払うことで、その後の労災補償の責任を免除してもらい、さらに解雇の制限を解除してもらう制度」のことです。
通常、仕事で怪我をした従業員に対して、会社は「治るまで」補償する義務があります。これは労働基準法で決められた絶対的なルールです。しかし、治療が5年、10年と終わりなく続いてしまったらどうでしょうか。会社側の負担は計り知れず、経営が立ち行かなくなるリスクもあります。
そこで法律は、「3年経っても治らない場合は、1200日分の平均賃金を一括でドンと払えば、そこから先の補償義務は勘弁してあげましょう」という出口を用意したのです。これが打切補償の正体です。
打切補償が成立するための3つの絶対条件
「3年経ったから自動的に打ち切り!」というわけにはいきません。打切補償を成立させるには、法律が定める3つの条件をすべてクリアする必要があります。
1. 療養開始から3年が経過していること
カウントが始まるのは「怪我をした日」ではなく「治療を始めた日」です。そこから丸3年、治療が続いていることが前提となります。
2. 負傷または疾病が治っていないこと
ここでいう「治っていない」とは、専門用語で「治癒(ちゆ)」していない状態を指します。もし3年以内に完治していたり、あるいは「これ以上治療しても良くならない(症状固定)」という状態になっていれば、それは打切補償ではなく「障害補償」などの別のフェーズに移ることになります。
3. 平均賃金の1,200日分を支払うこと
これが最大のハードルです。後ほど詳しく計算しますが、かなりの高額になります。この金額を労働者に直接、あるいは後述する「労災保険」の仕組みを通じて支払う必要があります。
打切補償の計算:1200日分って実際いくら?
「1200日分」と言われてもピンときませんよね。具体的な数字で考えてみましょう。
打切補償の計算式は以下の通りです。
【平均賃金】× 1,200日 = 打切補償額
平均賃金とは、ざっくり言うと「直近3ヶ月の給料の平均(日給換算)」です。
- 平均賃金が10,000円の人なら……1,200万円
- 平均賃金が15,000円の人なら……1,800万円
どうでしょうか。かなりの大金ですよね。中小企業がこれをキャッシュでいきなり用意するのは、現実的にはかなり厳しいと言わざるを得ません。
しかし、ここには「裏道」というか、実務上の救済措置があります。それが「労災保険」との連動です。
労災保険の「傷病補償年金」がカギを握る
実は、会社が直接1,200万円をポケットから出さなくても、打切補償をしたと見なされるケースがあります。それが、労働者が労災保険から「傷病補償年金」を受けている場合です。
療養開始から1年6ヶ月が経過しても治らず、症状が重い場合、労災保険から年金が支給されるようになります。この年金を受け取っている状態で3年が経過すると、法律上は「会社が打切補償を支払ったのと同じ」と見なされるのです。
これを「打切補償のみなし規定」と呼びます。実務上の打切補償のほとんどは、この年金支給による「みなし」のパターンです。これなら会社は多額の現金を個別に用意する必要がありません。
最大の焦点「解雇制限」の解除について
会社側にとって、打切補償を行う最大のメリットは「解雇制限の解除」にあります。
労働基準法では、仕事で怪我をして休んでいる期間と、その後の30日間は、どんな理由があっても解雇してはいけないという強力な「解雇制限」がかかっています。たとえ経営が苦しくても、休業中の労災被災者をクビにすることはできません。
しかし、打切補償を行う(または年金支払いで打切補償と見なされる)と、この「絶対に解雇してはいけない」という制限が外れます。つまり、法的に解雇の手続きを進めることが可能になるわけです。
ただし、ここで大きな勘違いをしてはいけません。
「解雇制限が解除される = 自由に解雇していい」という意味ではないのです。
打切補償を支払っても「即解雇」はできない?
解雇制限が解除されたとしても、日本には「解雇権濫用の法理」という厳しいルールがあります。
解雇するためには、
- 客観的に合理的な理由があること
- 社会通念上、相当であることという2つの高いハードルを超えなければなりません。
例えば、怪我の状態がかなり回復していて、あと数ヶ月で事務作業なら復帰できるという状況なのに、「3年経ったし打切補償のみなしが適用されるからクビだ!」とやってしまうと、不当解雇として裁判で負ける可能性が非常に高いです。
会社側は、
- 他の部署でできる仕事はないか検討したか
- 復職に向けた話し合いを十分に行ったか
- これ以上雇用を維持することが、会社運営にどれほど深刻な影響を与えるかといった点を慎重に判断しなければなりません。
労働者が知っておくべき身を守る知識
もし、あなたが治療中に会社から「打切補償を払うから退職してほしい」と言われたら、まずは落ち着いて状況を整理しましょう。
まず、打切補償は「それ以降の会社からの補償」を打ち切るものですが、「労災保険」自体がなくなるわけではありません。会社を辞めた後も、怪我が治るまでの治療費(療養補償)や、生活費のサポート(休業補償または年金)は、国から直接受け取り続けることができます。
問題は「雇用」です。「治療に専念して、いつかこの会社に戻りたい」と考えているなら、安易に合意してはいけません。打切補償を理由にした解雇は、非常にデリケートな問題です。少しでも疑問を感じたら、労働基準監督署や弁護士などの専門家に相談することをおすすめします。
会社側が注意すべき実務の落とし穴
企業担当者の方が注意すべきなのは、通勤災害との違いです。
打切補償のルールが適用されるのは、あくまで「業務災害(仕事中の事故や病気)」だけです。通勤途中の事故である「通勤災害」には、そもそも労働基準法上の解雇制限がかかっていません(ただし、別の理由で解雇の正当性は厳しく問われます)。
また、打切補償を支払ったとしても、それは「労災の補償」であって、社内規定で決まっている「退職金」とは別物です。1,200万円払ったから退職金はゼロ、という理屈は通りませんので注意してください。
打切補償とは?支払う要件や1200日分の計算、解雇制限との関係まとめ
打切補償は、長期化する労災事案において、会社と労働者の関係を「精算」するための一つの法的な出口です。
- 療養開始から3年経過が前提
- 平均賃金の1200日分という高額な支払いが必要
- 傷病補償年金の受給があれば、支払ったと見なされる
- 成立すれば解雇制限は解除されるが、即解雇ができるわけではない
この仕組みを正しく理解しておくことは、万が一の事態に備えるリスクマネジメントとして欠かせません。
もし現在、長期の休業者がいて対応に苦慮している、あるいは自分自身が長期療養中で今後の雇用に不安があるという場合は、独断で動くのは禁物です。法律の専門家や社会保険労務士に相談し、お互いにとって最も納得のいく形を探ることが、トラブルを未然に防ぐ唯一の方法と言えるでしょう。
労働基準法 逐条解説 を手元に置いて、改めてルールを確認してみるのも良いかもしれません。正しい知識こそが、あなたや会社を守る最大の武器になります。

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